声高らかに歌うせみたちの命の歌

幼虫の体はいつの間にか固いよろいで覆われていた。まるでロボットのような足取りで関節中をギシギシきしませながら、幼虫は苦しそうに暗闇の天井をかきむしる。志保の耳にかすかに、しかし、はっきりと何かが押し寄せてきた。地の底から湧き上がるようなそれは、お経だった。その抑揚のないリズムとせみのぎこちない動きが今、世界を支配している。志保は宇宙の暗闇にいるような気がして、叫び出しそうになった。
その時、せみの前足が痛々しい動きで最後の土をひとかきした。突然あらわれる太陽の光にカラコンをした目が眩む。灼熱の空気。せみのまだかすかに柔らかかった体が途端に悲鳴を上げ、水分を失って固く縮んでいく。志保は恐怖に目がくらんだ。
驚いて目を覚ました志保の耳に、突然境内のせみの声がこだました。さっきよりずっと大きく耳に響き出したその声があまりにも恐ろしくて、子供の志保は耳をふさいで家に逃げ帰ったのだ。
そして今、志保は夜の公園で再び大きく響くようになったせみの声を耳にした。長い夢から覚めたような気分だった。時計を見ると十二時をまわっていた。
ゆっくり立ち上がると、背後で何か落ちる気配がした。せみの抜け殻だった。茶色く乾いたその物体は、夏の風に吹かれてカラカラと音を立てながら木の根元で空虚にゆれている。
「・・・人の一生、せみの一生、どこが違うというのかしら」
公園のどこかで最後の力をふりしぼって声高らかに歌うせみたちの命の歌を聴きながら、志保はその場を後にした。
人の一生とせみの一生

― どうして人は我々が土の中で過ごす時間を忍耐の時だと思うのでしょう。我々がこの歳月をいかに楽しく意義ある青春の時としているか、どうして思い及ばないのでしょう。今日、私は長年共に過ごしてきた仲間たちと別れを告げてきました。もう体が固くなり、土の中では息苦しくて仕方ありません。こんな姿で苦しむさまを若い仲間たちにこれ以上見せるわけにはいかないのです。しかし、残酷なことに、彼らは私の末路を知っています。それは私がこれから地上で待つ試練を知っているのと同じです。我々の本能が自分たちの将来を、最期を、いやがうえにでも伝えるのです。ほんのわずかしか地上で生きられないことを知っている我々にとって、この別れはすなわち死を意味します。長い長い間、土の中で暮らしてきた者にとって、突然灼熱の日のもとにさらされ、慣れない羽で飛ぶことが、そしてそれが慣れる前に終わってしまうことを知っているのが、どんなにつらいことか、おわかりですか? 我々は地上での日々を、子孫を残すためだけに与えられているのです。我々の鳴き声が愛の賛歌ですって? とんでもない。強いて人の言葉にすれば、こんなところでしょう。
早く死にたい
早く死にたい
そのために早く子孫を残さなければ
それは異形となり、真夏の太陽に焦がされる断末魔の叫びとなって森に、林に、こだまするのです。・・・しかし、思うのです。人の一生とせみの一生、どれほど違うというのでしょう。
命の誕生日プレゼント

長い間、土の中で幼虫として過ごしたせみは七年の後、やっと成虫のせみとなって自由に空を飛び回れる。しかしそれは、たった一週間だけの命の誕生日プレゼントなのだ。この一週間のためにせみたちは七年もの間、土の中で耐えてきたのだから、捕まえたりしてはいけないのだよ。
それを聞いて以来、志保はせみがうらやましかった。せみにとって七年は長いだろうけれど、最後に夢が叶うのなら、人間よりましかもしれない。お堂の方から漂う線香のかすかな匂いが鼻をかすめる。志保は目を閉じてせみたちの至福の時の愛の賛歌に耳を傾けた。せみの声が心なしか遠のいていったような気がして、何だかフワフワ気持ちよくなってきたところだった。
― 本当にそう思うのですか?
志保は誰かに尋ねられて、驚いて辺りを見回した。自分はいつの間にか居眠りしていたのだろうか。
「ここはどこ?」
周りは真っ暗で、物音ひとつしない。不安に思って辺りを見回していると、ポッと一ヶ所にかすかな光が見えた。志保はその光に目を凝らす。何かがぼんやりと見えてきた。それは何かの幼虫だった。志保はゆっくり手を伸ばし、暗闇で唯一、目に見えるおぼろげな光に手をかざしてみた。何となく温かいものが手のひらに伝わってきてホッとする。するとさっきの声が再び語り出した。どっしりと重く、そして寂しげな独り言のような声だった。志保は夢心地で耳を傾ける。
小学校四年生の頃

小学校四年生の頃、志保は家族と喧嘩をして家を飛び出したことがあった。真夏の昼のことだった。子供の志保がとりあえず身を隠す場所として思いつくのは近所の林くらいだった。
家を出て十分も歩くと民家が途切れ、林と宅地を隔てる急斜面があらわれる。子供たちはよく木の根や枝をつたって、その坂のてっぺんまでよじ登り、そこから緩やかな傾斜を下って林に入って行った。大人が入る場合は斜面をぐるりと回って川の方まで行き、民家裏の溝をつたって行く道を使った。
志保は勢いよく急斜面に立つ木の枝につかまり、足を根にひっかけて坂を登った。てっぺんまでひとふんばり、後はのんびりと坂を下った。坂を下りて左は大人用の溝に通じているので迷わず右の道を進んだ。この道をまっすぐ行けば大きな林に出るし、左に折れれば町外れのお寺に通じている。休みの日のお昼とあって、林の方からは近所の男の子たちの声がした。志保は左に折れ、お寺の方へ向かった。
いつの間にか小走りで先を急ぎ、人気のない静かなお寺の境内にたどり着いた時にはかすかに息を切らせていた。青々と茂る木々の葉からもれる太陽の光に目を細め、汗をぬぐう。木や下生えの草から強烈に緑がにおい立つ。志保は少しでも涼しそうな場所を探して境内をさまよった。
さっきの些細ないさかいが、かすかに胸を絞めつける。居心地の悪い家よりは、ちょっとくらい暑くてもここの方がましだ、と思った。
志保はお堂わきの大きな木の下に、座り心地の良さそうな石を見つけて腰かけた。石はひんやりとしていて気持ちよかった。ゆっくりと背を伸ばし、後ろの木にもたれようとしたその時、大きな声を上げて一匹のせみが飛び立った。志保は思わず悲鳴を上げて飛びすさった。
が、大慌てで飛んでいくせみの後姿と自分の慌てようが面白くて、笑いがこみ上げてくる。もう一度落ち着いて石に腰かけて耳を澄ませてみると、境内の林はせみの鳴き声でいっぱいだった。志保は昔、親戚のおじさんに聞いた話を思い出した。
夜の公園に足を踏み入れた志保

再び生温かい外気にさらされて一瞬ゾクッとしたけれど、駅前よりはずいぶんいい風が吹いている。いつも通るこの道の左側はマンションに囲まれた公園になっていた。時々浮浪者が寝ていたりするのだが、今夜はいないようだ。志保は思い切って夜の公園に足を踏み入れた。真っ暗な所は怖いので、ベランダがこちらに向いたマンションの近くのベンチに腰かけた。
いい風が吹き抜ける。まるで今夜、志保のために準備されたかのように静かで、適度に明るく、そして誰もいない公園。どこか現実離れしている気がして不安になるが、ずっと留まっていたいとも思う。
そんな思いとは裏腹に志保はメロンパンの袋を開ける。パリパリという乾いた音があまりにも現実的で興ざめだった。冷たいビールを一気に飲みながら、この組み合わせはまるで大人と子供が同居しているようだ、と思った。メロンパンは子供の頃から同じ味がする。志保は何となく昔を思い出し、ビールを呷りながらベンチの後ろの大きな木に背をもたげた。木はびくともしなかったけれど、一匹のせみが微かな振動に驚いてビッと一声上げると、夜の闇へと消えて行った。志保もびっくりして身を起こし、木の幹に何か妙なものがひっついていないかチェックする。幸い背の当たる辺りには何もいないようだった。志保はもう一度木にもたれ、そして、フッと既視感に襲われた。かつて同じようなことがあった気がする。そしてその時、何か不思議な体験をした覚えがある。あれは夢だったのだろうか。志保は遠い記憶をたどって、ゆっくりと目を閉じた。
ここで立ち止まってはおしまい

ここで立ち止まってはおしまい、といった勢いで、志保は地下鉄の階段をかけのぼった。自分のペースが人の目から見ればそれほど速くないのはわかっているが、のぼり切ったところで息がつまり倒れそうになる。一瞬どこか悪いのではないかと不安になるが、この暑さと蓄積した疲労のせいだということは、承知していた。地上に上がった所で、外のムッとした空気に思わず肌が粟立つ。
今日も残業を終えてここまでたどり着いたのが十一時過ぎだった。志保は額の汗をぬぐい、大きく息をつく。やらなければいけないことは毎日山積みで必死だったが、誰がやっても同じ仕事だということはわかっていた。そんなものに追われながら過ごして来た歳月の長さを考えると溜息が出る。時々自分の存在価値さえわからなくなって、苦しくなった。人の言う生き甲斐や幸せって何だろう。周りが言うように、早く結婚して、子供を持つことが一番価値あることなのだろうか。最近こういうことばかり考えているような気がする。そして考え出すと家に帰るのが怖くなる。こんな気持ちで一人ぼっちでいると、狭い部屋に押しつぶされそうな気がするからだ。しかし、こんな時間に疲れた体で行くあてはなかった。消えてなくなりたい・・・何の根拠もないのだけれど、最近やたらとそう思うようになった。が、その術もないまま毎日が過ぎていく。死ぬわけにいかないのだから気分を変えよう。せめて、好きなものを買って食べよう、そんな発想が滑稽なくらい女っぽくて思わず苦笑しながら、志保は近くのコンビニに入った。
コンビニの蛍光灯は会社と同じく、現実的な光で全てを照らし出す。志保は菓子パンとビールをつかむと、勘定を済ませて外に出た。