人の一生とせみの一生

― どうして人は我々が土の中で過ごす時間を忍耐の時だと思うのでしょう。我々がこの歳月をいかに楽しく意義ある青春の時としているか、どうして思い及ばないのでしょう。今日、私は長年共に過ごしてきた仲間たちと別れを告げてきました。もう体が固くなり、土の中では息苦しくて仕方ありません。こんな姿で苦しむさまを若い仲間たちにこれ以上見せるわけにはいかないのです。しかし、残酷なことに、彼らは私の末路を知っています。それは私がこれから地上で待つ試練を知っているのと同じです。我々の本能が自分たちの将来を、最期を、いやがうえにでも伝えるのです。ほんのわずかしか地上で生きられないことを知っている我々にとって、この別れはすなわち死を意味します。長い長い間、土の中で暮らしてきた者にとって、突然灼熱の日のもとにさらされ、慣れない羽で飛ぶことが、そしてそれが慣れる前に終わってしまうことを知っているのが、どんなにつらいことか、おわかりですか? 我々は地上での日々を、子孫を残すためだけに与えられているのです。我々の鳴き声が愛の賛歌ですって? とんでもない。強いて人の言葉にすれば、こんなところでしょう。
早く死にたい
早く死にたい
そのために早く子孫を残さなければ
それは異形となり、真夏の太陽に焦がされる断末魔の叫びとなって森に、林に、こだまするのです。・・・しかし、思うのです。人の一生とせみの一生、どれほど違うというのでしょう。